22 Mar 09 楽しさと写真の結果の満足度は特に関係なかった日(・∀・)
2009年 03月 22日
先週水曜日に、どうしてもちょっとでも撮りたくて、いつもの白金(目黒)の自然教育園に行ってきました〜
閉園まで1時間一本勝負でした〜
一ヶ月ぶりくらいに行ってみたら、
すごーーく景観が変わってましたよ〜
・・・とはいえ、あそこは色んな花があったりする場所ではないので、
冬にわさわさしてた樹木が裸になって、
その代わりいっぱい別のところに違う植物が芽吹いてたりとか、
地味といえば地味なんですが
何度も通ってるからその違いがすごくわかって、とても楽しかったー
その楽しさといったら、
「たのしーたのしーたのしーよー」って
ふかふかの枯れ葉の上に
ゴロゴロ転がりまくりたくなるような、そんな感じ(笑)
んで、くっつけていったレンズは50mm f1.4 EX DG HSMです!
・・・気分はしゃいでた割には、実はろくな写真が撮れなかったすよー<(;~▽~)
一緒に行った彼の方は
魚眼+望遠(ただしボディはE-3)で
きゃっきゃ言いながら「春の息吹」を撮ってたけど。
かたや私といったら、写真自体の結果も、ホントおもわしくありませんでしたよ。
しかも、撮影自体すら、実はそれほどノリノリではなかったのです。
理由のひとつは、
◎18-200mmを持ってきて51mmで撮ったこともあったけど、ここ最近はいつも105mmを持ってきてたので、50mm(foveonの場合はx1.7)の画角に慣れるまで時間がかかってしまった
◎風が強くて日が暮れかけていたので、条件的にちょっとあきらめてた、というのもあるなぁー
あと、どっかで視度補正レンズ落っことしたらしい(TωT)
気づいたら良く見えてなくて、どうしたんだろうと思ったら、消えてた・・・
あれ何かユルくって、良くずれてたからなぁ・・・
というわけで
どんだけ春の息吹に心浮き浮きしていたか、感じていただけたでしょうか
・・・
って、思いっきり逆な印象だよね!
思うに、このとき実はちょっと「不安」を感じてたんですよ。
この記事にチラリと書いたんですけど、けっこう今、「転機を自ら創出してるとこ」って感じで。
この「転機」って、「よっしゃー!タイミングきた!」っていう浮き浮きもあるんですが
やっぱりどこかで「不安」がうっすら影を落としてるんですよね・・・それを感じるわけです。
その「不安」ってのは、色んな要素を持ってるんですけど、基本は「見捨てられる不安」ですね。
「誰に?」ってのは、親を通じて埋め込まれ自分の中に棲み着いて内在化された「社会(世間様)」ですよね。
不安なく堂々と変化してる(転機を迎える)ときって、「(この内在化した存在から)これなら見捨てられないだろう」と確信を持って準備してて、それをクリアしたときだったりするんだよね。
・・・もっと詰めれば、そんな「確信」なんてみんな幻想なんだけどね・・・
でもその確信が足りていないと、「不安」がもれなくついてきます。
「見捨てられるって、どんな風に?」っていうのは、
人それぞれ色んな要素だと思いますが、
だいたい共通してるように思うのが、
「経済的にヤバくなるんじゃないか」ってやつ。
あとは、今まで支えてくれた人たちが去るんじゃないかとか、
「仲間」と思ってきた人たちと決別しなくちゃいけなくなるかも、
とか、ホントに人それぞれ、色々だと思います。
これって、無理矢理、「いいや大丈夫!」なんて振り落としちゃマズい「不安」なんですよ。
じっと見つめて、「なんだこういうことか」っていう風に、とりあえず納得しておいた方が快適だと思います。
「不安」自体は消えなくても、「そうか、これで不安なんだ」ってわかってた方が、後から「不安」が「現実化」するのを避ける確率が高くなるから。
「不安」って、マジで現実化するもんね。
スピリチャルでも何でもないですよね、これって。
誰でも「不安」を消そうと思って行動するとかえって飲み込まれてその通りになっちゃうというワナ。
わかりやすい例でいえば、「彼にいつか飽きられるんじゃないか」って不安を抱き続けていたら、確実にその日は訪れるよね。
「女磨き」だの努力だの関係なく、いつかは確実に飽きられちゃうよ。
簡単な話で、その「不安」は彼には伝わっていて(鈍感な男に限って腹でこれを感じる)、「なーんかつまんないなー」って、つい他の女の人に目がうつっちゃうのが自然の摂理ってもんだよね(←って、あたしは男ですか!?)
赤子のようにピュアに全身全霊で信じきってくれる女は飽きないと思うさ。
それでも「悪さ」するような男とは別に一緒にいる価値ないから、別れて上等なわけだし。
・・・と、脱線しまくってますが、そうです、「不安」が「結果」をつくるんだよね。
と私は思ってるんですけど。
で、この「不安」のベースなんですが、
「親に見捨てられるんじゃないか」
(たとえ既にこの世にいなくても)
ってことなんですけど
そこまで自分の心の動きの土台部分を突き詰めて自覚してる人は非常に少数だし
なにしろ、誤解されるんだよね〜〜こういうこと書くと。
「なんでも親のせいか」とか言い出す人が必ず出てくるんだ・・・そういう人に限って実はその「不安」がどんな決断のベースにもなってるってのにさ。
ま、文章なんて「誤解上等」で書くもんですよね。
それが前提にないと、やってられませんもん。
読み手に解釈はまかされてるんだから。
・・・というわけで
なんか変な毒舌になってきちゃいましたが(●´ω`●)ゞ
「楽しさと写真の結果の満足度は特に関係なかった」ってタイトルで書き出した記事だったけど、
ここまで自己分析したら、違う結論が出ました
あのときの、ふかふか枯れ葉にゴロゴロしたくなるような楽しさは、
甘えん坊さんな依存状態の楽しさだったんだなーって。
その前に仕事でテンパって存在が「半透明」になりかけたから、「よしよし」って抱っこしてほしかったんだと思う。
「ふかふかにゴロゴロしたい」って表現がそのままその心境をあらわしてるよね。
んで、もっと重要なことに気づいちゃったんだけど
「楽しさに関係なかった」とかじゃなくて、
写真の結果こそがまことの心の鏡だったってこと。
うひゃ〜、すごいこと言っちゃったよっ
やっぱさ、写真って楽しすぎるんだよな〜〜
o(〃^▽^〃)o
閉園まで1時間一本勝負でした〜
一ヶ月ぶりくらいに行ってみたら、
すごーーく景観が変わってましたよ〜
・・・とはいえ、あそこは色んな花があったりする場所ではないので、
冬にわさわさしてた樹木が裸になって、
その代わりいっぱい別のところに違う植物が芽吹いてたりとか、
地味といえば地味なんですが
何度も通ってるからその違いがすごくわかって、とても楽しかったー
その楽しさといったら、
「たのしーたのしーたのしーよー」って
ふかふかの枯れ葉の上に
ゴロゴロ転がりまくりたくなるような、そんな感じ(笑)
んで、くっつけていったレンズは50mm f1.4 EX DG HSMです!
#6856
1/80 f5 ISO50
ManualEx MF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
1/80 f5 ISO50
ManualEx MF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
・・・気分はしゃいでた割には、実はろくな写真が撮れなかったすよー<(;~▽~)
一緒に行った彼の方は
魚眼+望遠(ただしボディはE-3)で
きゃっきゃ言いながら「春の息吹」を撮ってたけど。
かたや私といったら、写真自体の結果も、ホントおもわしくありませんでしたよ。
しかも、撮影自体すら、実はそれほどノリノリではなかったのです。
理由のひとつは、
◎18-200mmを持ってきて51mmで撮ったこともあったけど、ここ最近はいつも105mmを持ってきてたので、50mm(foveonの場合はx1.7)の画角に慣れるまで時間がかかってしまった
◎風が強くて日が暮れかけていたので、条件的にちょっとあきらめてた、というのもあるなぁー
そんな感じが手ぶれ具合や眠さにも表れている一枚<(;~▽~)
#6864
1/60 f7.1 ISO100
ManualEx SingleAF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
1/60 f7.1 ISO100
ManualEx SingleAF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
あと、どっかで視度補正レンズ落っことしたらしい(TωT)
気づいたら良く見えてなくて、どうしたんだろうと思ったら、消えてた・・・
あれ何かユルくって、良くずれてたからなぁ・・・
春の息吹よりも「枯れ味」ばかりが訴えかける写真
#6861
1/125 f10 ISO50
ManualEx SingleAF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
1/125 f10 ISO50
ManualEx SingleAF CenterAreaMetering
50mm (50mm f1.4 EX DG HSM) WBauto
というわけで
どんだけ春の息吹に心浮き浮きしていたか、感じていただけたでしょうか
・・・
って、思いっきり逆な印象だよね!
思うに、このとき実はちょっと「不安」を感じてたんですよ。
この記事にチラリと書いたんですけど、けっこう今、「転機を自ら創出してるとこ」って感じで。
この「転機」って、「よっしゃー!タイミングきた!」っていう浮き浮きもあるんですが
やっぱりどこかで「不安」がうっすら影を落としてるんですよね・・・それを感じるわけです。
その「不安」ってのは、色んな要素を持ってるんですけど、基本は「見捨てられる不安」ですね。
「誰に?」ってのは、親を通じて埋め込まれ自分の中に棲み着いて内在化された「社会(世間様)」ですよね。
不安なく堂々と変化してる(転機を迎える)ときって、「(この内在化した存在から)これなら見捨てられないだろう」と確信を持って準備してて、それをクリアしたときだったりするんだよね。
・・・もっと詰めれば、そんな「確信」なんてみんな幻想なんだけどね・・・
でもその確信が足りていないと、「不安」がもれなくついてきます。
「見捨てられるって、どんな風に?」っていうのは、
人それぞれ色んな要素だと思いますが、
だいたい共通してるように思うのが、
「経済的にヤバくなるんじゃないか」ってやつ。
あとは、今まで支えてくれた人たちが去るんじゃないかとか、
「仲間」と思ってきた人たちと決別しなくちゃいけなくなるかも、
とか、ホントに人それぞれ、色々だと思います。
これって、無理矢理、「いいや大丈夫!」なんて振り落としちゃマズい「不安」なんですよ。
じっと見つめて、「なんだこういうことか」っていう風に、とりあえず納得しておいた方が快適だと思います。
「不安」自体は消えなくても、「そうか、これで不安なんだ」ってわかってた方が、後から「不安」が「現実化」するのを避ける確率が高くなるから。
「不安」って、マジで現実化するもんね。
スピリチャルでも何でもないですよね、これって。
誰でも「不安」を消そうと思って行動するとかえって飲み込まれてその通りになっちゃうというワナ。
わかりやすい例でいえば、「彼にいつか飽きられるんじゃないか」って不安を抱き続けていたら、確実にその日は訪れるよね。
「女磨き」だの努力だの関係なく、いつかは確実に飽きられちゃうよ。
簡単な話で、その「不安」は彼には伝わっていて(鈍感な男に限って腹でこれを感じる)、「なーんかつまんないなー」って、つい他の女の人に目がうつっちゃうのが自然の摂理ってもんだよね(←って、あたしは男ですか!?)
赤子のようにピュアに全身全霊で信じきってくれる女は飽きないと思うさ。
それでも「悪さ」するような男とは別に一緒にいる価値ないから、別れて上等なわけだし。
・・・と、脱線しまくってますが、そうです、「不安」が「結果」をつくるんだよね。
と私は思ってるんですけど。
で、この「不安」のベースなんですが、
「親に見捨てられるんじゃないか」
(たとえ既にこの世にいなくても)
ってことなんですけど
そこまで自分の心の動きの土台部分を突き詰めて自覚してる人は非常に少数だし
なにしろ、誤解されるんだよね〜〜こういうこと書くと。
「なんでも親のせいか」とか言い出す人が必ず出てくるんだ・・・そういう人に限って実はその「不安」がどんな決断のベースにもなってるってのにさ。
ま、文章なんて「誤解上等」で書くもんですよね。
それが前提にないと、やってられませんもん。
読み手に解釈はまかされてるんだから。
・・・というわけで
なんか変な毒舌になってきちゃいましたが(●´ω`●)ゞ
「楽しさと写真の結果の満足度は特に関係なかった」ってタイトルで書き出した記事だったけど、
ここまで自己分析したら、違う結論が出ました
あのときの、ふかふか枯れ葉にゴロゴロしたくなるような楽しさは、
甘えん坊さんな依存状態の楽しさだったんだなーって。
その前に仕事でテンパって存在が「半透明」になりかけたから、「よしよし」って抱っこしてほしかったんだと思う。
「ふかふかにゴロゴロしたい」って表現がそのままその心境をあらわしてるよね。
んで、もっと重要なことに気づいちゃったんだけど
「楽しさに関係なかった」とかじゃなくて、
写真の結果こそがまことの心の鏡だったってこと。
うひゃ〜、すごいこと言っちゃったよっ
やっぱさ、写真って楽しすぎるんだよな〜〜
o(〃^▽^〃)o
by karuku_against
| 2009-03-22 19:34
| SD14〜7000枚(282日目)